show no mercy

酔ってこい酒場です

雑念で記す=雑記

 

最近、職場の昼は日清カップヌードル高タンパク質PROをすすっている。このカップヌードル栄養価やばいんでしょ、これだけ食べとけばいいでしょ、って。脳死の職場における昼メシ選択肢にちょうどよく、ありがたい。あと黙々とすするという行為に、周りは一切気にしないぜというささやかでも強い意志を交えさせられるということもできるんだよ。カップヌードルをすすると「「労働してる」」感でるよね。

 

今日も情けなくTwitter(X)でも愚痴ってしまったが、

Aさん:「すぐ近くにいるんだから話しかければいいじゃん(隣のBさんに話しながら&キムラをチラ見しながら)」

Bさん:「えー(キムラをチラ見しながら)」

Aさん:「キムラさん〜Bさんが〜(Bさんからキムラへの用件をBさんの代わりに話伝える)」

いやいや、イジメか〜い笑って思っちゃった なんか酷すぎて笑っちゃったよね。まぁ笑えるからいいってことは、ないんですよ。心、あるんですよ。

 

先週末、スープストックに立ち寄ったら、スティーリー・ダンの「Dirty Work」が突然流れはじめ(聴いたら泣く必須みたいな曲が人生に数曲あるのだが、これもその一つ)、必然的に涙すすりながらスープを飲む奇怪な女性になってしまったんだけど、この曲こんなにスバラード(素晴らしいバラード)なのに、改めて歌詞を読むとかなりひどい歌詞なんですよ。年上のお金持ち女性が若い男を飼って、情事する。「youの汚れ仕事はしたくない」と若い男が女に音を上げる内容。なにこれ?このバランスであのいい曲に仕上がるんだからすごい。

 

"dirty"色々、人生いろいろ。

 

 

カップラーメンはおいしいから食べるというわけではなく、カップラーメンが食べたいから食べるというものがカップラーメンだろ、と思いますね。

LINEスタンプを作る。OK。

 

先週から大江健三郎の『取り替え子』を読み直している、3周目。

この熱量で別途感想をまとめたいと思いつつ書きまとめられてないのだが、『万延元年のフットボール』の傑作っぷりともまた違う、「読みたくなくても読んでしまう」魅力に溢れ、おそらくこの物語の魅力をレバーパテみたくギュッと擬人化させた人間に出会ったら、確実に自分は恋に「落ちてしまう」であろう良さがあると確信している。誰にとっての傑作か?社会にとってではなく、自分にとっての傑作。あー話したいよ。今度スペースで話したいので話します。

 

雨にするか風にするかどっちかにしてくれ!みたいな日でしたね。本当にやめてください。

 


先週、職場で訳もなくパニック状態に陥り、ちょうど1対1で話していた最中になったもんだから、その職場の方に多大な取り繕いと謝罪だけ文面にて送り、早退したんだけれど。まぁ金曜日だったからよかった。明日土日だヤッピー早退。今週の始まりは、地獄。確実に、ちょっとなんかヤバい人と思われてないかて自意識発生(♪鬱ぇ〜鬱ぇ〜鬱ぇ〜わ〜 by 脳内鬱Ado)。思われてるよなぁ。はぁ。

自意識を重ねに重ねる…を止めることに努めよう。元気をトリモロス!そんな1週間が始まった。
自意識によって自分を認識し始めると、厄介な階段構造にも気付かざるおえないよね。
「自分は悲しんでいる」「自分は悲しんでいる自分に気づいてしまった」「自分は悲しんでいる自分に気づいてしまった自分に気づいてしまった」「自分は悲しんでいる自分に……」果てしない。マジで自意識がボルト並みの速度で追い越す、そして一段上の自分から裁かれる。〜でもおかしいかも、〜でもまだおかしいかも。

 

「本当にそれは正しいのか」と問う過程でこの「でも」をこねくり回しまくると着地点はどんどん離れていく一方で、自己否定がどんどん生まれているような体感になるから、そう考えると「こねくり回しまくる」の部分を「荒ぶりまくる」と言い換えれば、「荒ぶりまくる自意識は自己否定になりうる」というのは断言していいはずなのよ。答えがそもそもあるはずもない「理想の自分」を求めていく過程は、あまりにもトゲピーすぎる。『眠れる森の美女』の棘に囲われた城のビジュアルは大好きなんだが。理想の自分など求めなくてよい、と。今求められるべきは、脳を休める以上に魂の浄化……

 

 

以下、今日の出来事

 

・朝の電車内で流れている広告動画、マジでムカつく。「オワコンの現代社会で生きる」という表現、終わっていること=「オワコン」という言葉で表現しようという一昔前のキモさがある。朝の満員電車で最悪な気分になっている身の自分にとっては感覚的に""ムリ"""となるキモさあり。ムリだ……あれを見せようと決断した広告の方々は、一度同じシチュエーションで検証確認してほしい。ムリだから。

 

・帰路時、「降りまぁぁぁす」と張り裂けるような声で叫んでも、最寄りの駅では降りられなかった辛そうな人を横目に、自分は次の駅(自身の最寄り)で降りた。

 

・自分が憧れる人間の特徴、申し訳ない場面でメチャメチャ申し訳ないように振る舞える人間かも。申し訳ない場面で、一番リアクションオーバーになる人に憧れる。

 

・ある程度他人に迷惑はかけないという信条では生きているが、他人に全く迷惑をかけてない(ように見える)人間のことは、自分は信用できないことに気付いた。

 

・NEWキャッチコピー作りました。
「向き不向きより前向きに 甘栗ムキムキ!きむです」

 

・LINEスタンプを作ると決めた。

 

 

ルームシェアをはじめて3ヶ月が経ち

 

この街に住んでみたい!という我が人生思いつき坊の直感を信じ、去年(2023年)の12月、唐突に引っ越してみた。学生時代から「キムラはなんか中央線ユーザーっぽい」と言われることが多かったので(まぁ自分でもなんとなくわかる)、イメージに抗いたく抗っていると思われてそうではあるが、ワタシは京王線沿いに住まわせていただき押忍!と、ハタチを超えてからはずっと京王線沿いでうろうろ住み移っていた。

 

今住んでいる街の魅力は、朝でも昼でも夕方のような雰囲気があるところ。これは中央線に住んでいる人々になら伝わると信じているが、日光の差し込み方が京王線沿いの駅とは明らかにちがくていい。緑も茶色も多いし、明らかに子ども達も生きやすい""街""という感じがする。京王線にも違う良さがあるのだけどね。

今回、住みたい街に安く住みたい&敷金礼金がなく期間も縛りのない気楽な住み方をしたいという希望で、ネット上で大家さんがルームシェア募集広告を出しているところへ応募→個人間の契約を結ぶというよく考えるとリスキーなことをしてみた。根底にあるのは人生やったことないことをなるだけやって死にたい(脳内に流れているのは「♪今日は昨日みたい? 明日は今日みたい? 大丈夫 大丈夫 楽しかったら大正解!」Utauyo!!MIRACLE放課後ティータイム)ではあるんだけど、大人になるにつれて、やはり転職エージェント企業と不動産会社への憎しみがツートップでデカくなっていており、直でやり合えばいいのでは?なぜ仲介する?仲介することでうまくいくものもうまくいかないのでは??と、この巨大化した疑心暗鬼お化けのせいでもある。もし次転職することがあるとするならば、会社かなんかわからんけど、直に履歴書を出しに行くでしょう。

 

今回、住みたい街で募集がかかっている募集物件に数件目を通したが、募集要項の説明で圧倒的に惹かれたのは、「テ●スハウスみたいなキラキラしたルームシェアを想像している方は、お控え下さい。普段はそれぞれ個人の生活を重んじており、何かあった際には支え合う程度の関係で生活をしております」という文言だった。最高!先に住んでいる方2名の少なき情報も確認すると、AさんとBさん(歳上の女性たちであることはわかった)も落ち着いた感じの人々そうであった。最高!……と言いつつ、この時点で何もわからない他人であることを自覚はしていたものの、蓋を閉じた…。

 

まず、大家さんも介し、AさんとBさんも集った場で居住スペースの説明や、共有場の掃除分担などを受けた(今回Cさんが退去したことによる募集)。第一印象としては、AさんとBさんどちらも他人に対しての警戒心強めではあるが、受け答えも言葉少なくしっかり返答するタイプで、Aさんは時たまがんばって笑顔で対応してくれようとしているのがこちらにも伝わる笑顔を浮かべており、それとは対照的にBさん側は真一文字に口元を結んでおり、初対面の間柄では緊張感にソワソワさせられるものの、悪い人ではないのがはっきりわかる立ち方をしていた(Bさんは小一時間ずっとキッチンに寄りかかり立ちしていた)。意外とあまり接することのない、落ち着いた大人の女性たちを前にして、猫の前で大きい音を出さないようにしている配慮しているみたいな人間の姿=今の自分の姿なんだろうと思いながら、ワタシは変な人間ではないですよーをアピールするがためだけににこにこした表情をしながら(しょうがないの!自然と、そうなっちゃうの!)、一通りしっかり会話をした。と思う。この時点で、リビングに差し込む西陽が素晴らしく眩しくて、この街にもっと住みたくなりました。

 

大家さんに「内見の時点で手土産を持ってきてくださった方は、初めてですよぉ!笑」と盛り上げてもらえる。ハハハ…無難にヨックモックの焼き菓子でスマセン…だったけど、なんか、そのシーンで謎に盛り上がった。先に1名すでに顔合わせした方がいらっしゃったとのことで、合否(住める合否?)を待っていたが…ぜひ!とキムラにお声がかかり、この度無事ルームシェア決定。やったぁ やったぁ

 

……で、早くも3ヶ月が経とうとしているが、全く会話をしない。いや、これ自体は募集要項に書かれてあったこととなんの齟齬もないので、全く構わないのだが…。廊下や共有スペースでばったり出会った際は、自分はAさんとBさんどちらにも挨拶をするようにしているが、不思議なことにAさんとBさんは挨拶もしていない&会話が聞こえたことがない。大家さんからあとから聞いたところ、2人はもう15年くらい一緒に住んでいるらしい……じゅうごねん?!!?!?!!!それくらい一緒に生活していれば、赤の他人と言えども会話なくとも…なのだろうか。わからない。フォローしている方が「人にちゃんと挨拶をするというのは、礼儀というより護身術」という今の自分には分かりしかしない名言をおっしゃっていたが、本当にね、AさんとBさんのどちらかが殺人鬼だとしても(ほんと失礼スミマセン)、いつも挨拶してくれてる人間を殺すのはやっぱりやーめたとなってくれるんじゃないかと、そんな思いすらもこめながら最近は挨拶している。Bさんはクリアな声で挨拶をしてくれるが、顔合わせ以降のAさんは聞き取れない何かもにょもにょした言語で挨拶を返す。目は絶対に合わせてくれない。「そういう人なんだろう」とお互いに思いながら接するのじゃ……!決して無理をしているわけじゃないけど、近所の美味しい和菓子屋でお饅頭を複数個買った際に、AさんとBさんそれぞれの名前を付箋に書いてリビングの机に置いていたら、翌日それぞれからすれ違った際に「ありがとう」と声をかけてもらえて嬉しかった(なんか普通の人間同士であることを確認した行為みたいになって勝手に申し訳なくなった)。もちろん『夜明けのすべて』にあった職場でのお菓子差し入れ気遣いに対して「ありがとう嬉しく思ってるよ&でも無理はしなくて大丈夫だからね」を重ねた素晴らしい返しの言葉はよかったけど、あれは完璧なフィクションの言葉すぎる、このシンプルなお礼にこそここは現実だと思えるのだからと、安心した。

 

住み始めて1ヶ月ほど経った時に、リビングで一人でレンチンしたご飯を食べていたら、Bさんがトコトコとやってきて、キムラが顔合わせの際に銭湯へよく行くことを話したのを覚えていてくれていたのか、近所の安くていい銭湯情報を教えてくれた。こんなコミュニケーションを取ってくれただけで、もう泣きそうになる程に嬉しかったワタシ……。Bさんは、近場の良銭湯の名称と「ここ(家)から、徒歩5分くらい」とハッキリ伝えてくれた。…にも関わらず、数日後キムラはGoogleマップでその銭湯と同名ではあるけど全然違う銭湯、その距離10kmくらいの場所にある銭湯をBさんに教えてもらった銭湯だと思い込み、ダイチャリを飛ばして行き、オススメしてくれた銭湯に行ったことをBさんに伝えたく、銭湯看板の写真を撮り、LINEで送った(グループのLINEで知り得ていたものの、個人LINEで送るのはなぁ…でかなり躊躇したものの、結果送った)。既読は付き、good!の顔をしたスタンプも付いた。しかし、返信なし。あー、やっぱり個人LINEで送ったのは距離感怖かったかな……と反省。明日また対面で軽く報告しようと決意。

 

翌日、また冷蔵庫にものを取りに行った際「送ってくれた写真、同名の違う銭湯だったよね…?(苦笑)」とBさんが話しかけてくれた時点で、教えてもらった銭湯と違う銭湯に行ってしまったんだと気づくキムラ。あーーーーーーーーーー。「次回こそ、行ってみます…」とBさんに伝え、本日時点でまだ行けていない。最近は、同じ家に住みながらもAさんとBさんどちらの姿も見ない。悲しい。でも、これが想像していたルームシェア、これこそがルームシェア。Bさんからしたら、ちゃんと他人の話を聞いていないキムラという認識のまま止まっている。あーーーーーーーー。

 

 

ネフリでjeen-yuhsカニエ3部作ドキュメンタリーを見ていたら、1部の中で若かりしカニエが「コップの水が半分ないじゃなく、コップにまだ水は半分ある」と、ポジティブ捉え方の話をしており、自分も見つめたいと思いました。まだ、水は、半分ある。

 

 

 

 

バクダン野菜炒めを食べよう

 

 

しゅ、出社がつれぇぇぇぇぇぇ

「それ金子眼鏡店のメガネですよね…?」と金子眼鏡店で購入したメガネは何故かすぐわかる。その察知能力だけは人一倍、あることがわかった。生きる上では何も役立たないし、金子眼鏡店でメガネを購入することは一生ないと思いますが……

 

ここ一週間は、悩ましいことに鬱が入っている。出社習慣に生まれたダークマターは約1か月間なかなか抜けないどころか、むしろ強まっており、かなり強烈で、気持ち悪い自意識に縛られている。こういう時期はもう働き始めてからは定期的に訪れており、それなのにどのくらい継続されるかは未だにわからなくて、いい加減にしてほしいし、悔しい、やはり大人になりきれてない感じがして、恥ずかしいです。こんな自意識みたいな話を書き綴っているのも恥ずかしいが、書くことそれ自体はいいことだと信じてやまない…

榎本俊二の漫画『ムーたち』の中で登場する「セカンド自分」という概念、当事者意識を持たないもう一人の自分を作り出すことで精神的なダメージを和らげるというものだけど、幸運なことに、ショッキングなことが起こった際には反射的に行えていると思ったよね。気持ちワルい自意識を持つことも、ポジティブに捉えれば自分の存在を見つめる自己への目配りだから、内省というものははかどるのでありがたい。特にこの数週間「自分はどう感じたいのか」というのを、かなり感覚的に把握できたと思う。好奇心のままに掘っていくことで得られるものだから、気楽に、自分の性格が分かってくるような気がしてきもちいい。
そもそも、「理解」と言っても自分の知っている言葉で、自分が納得のいくような言葉を落とし込んでるだけかもしれないよナ…などと思い始めると、それすらニセモノのような気がしてくるが…

 

じゃあホンモノってなんなんですか?

中華食堂 日高屋より ハレルヤ

 

『名指しと必然性』

「x3+y3=z3(ただしx≠0,y≠0,z≠0である)において、x,y,zがともに整数となるような組み合わせは存在しない」これは、今日的な記述で書いたフェルマーの最終定理である。フェルマーの原文を見てみると、「立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。一般に、冪が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない」と記されており、このままだと論旨が不明瞭な式を、ライプニッツは計算記号を提案したことによって明確化しようとしたわけである。この当時、数学とは、ただの「数のみの学問」ではなく、それはもはや人間の考え方の枠組みを包含しており、言語分析に関しても大きく踏み込んでいるのだ。これは、アリストテレスの時代から提唱されている分析哲学の流れであり、言語の分析を通じて物事の真理を把握しようとした形而上学の歴史である。 

 
しかし、クリプキは、「唯物論は、私の考えでは、世界の物理的記述は世界の完全な記述である、すなわち必然的に帰結するという端的な意味ですべての心理的事実に「存在論的に依存する」、と主張するものでなければならない。これが実情を捉えていないという直感的な見解に対して、説得的な議論を展開した同一性論者はいない、と私には思われる。」(『名指しと必然性』P183 第三講義より)と、述べている。これは、身の回りの全てを言語として表現できるという言語分析主義者のこれまでの主張を否定したといえる。この考え方になる理由は、そもそも言語がものの同一性の本質にさえたどりつけないのであるから、哲学の核心を言語が担えないという所以である。
 
クリプキは、クワス算によって、ことばは意味を持てるかということについて懐疑している。(『ことばは意味を持てるか』参照)
…例えば、56までの数字での足し算しかやったことのないAさんが居たとする。その人が、68+57の答えは125だと言うと、正しい答えは5だと主張するBさんが出てきて、その人との議論が始まる。Bさんは、「+」でプラスのことを意味するなら答えは125だが、「クワス」のことを意味していたなら答えは5だと言いはるのである。Aさんが反論して、プラスのことを意味してきたというと、Bさんは『「+」でプラスを意味してきた証拠を挙げてみろ』と言うのである。実は、ここからが問題で、いくら証拠となりそうなことを挙げても、証拠として認めてもらえないのである。証拠となる事実が無いのも、どんなことを挙げても証拠とはならないようなのだ。このことから、言葉が意味を持つという主張を正しいと証明してくれる事実は存在しないのだと結論付けられるのである。
 
クリプキクワス算からは、こう解釈出来るであろう。
私たちは、様々なことばそれぞれに決まった意味があると思っている。このことばは、あることを意味すると自分も思っていると同様に、相手もそう思っていると信じ込んでいるし、今までも、そして今後も、そうであると確信的に思っているのだ。言うなれば、私たちは、ある言葉は定められた規則に従って使われていると思っている。だが、クリプキの議論に従うのであれば、従来の言葉の使い方に矛盾しないようにし、かつ、新たな規則を作り出していくことが可能ということが結論付けられるであろう。
 
クリプキが考える"ことばの意味"について本書を読んで知り得たことは、言葉が意味を持つか否かいう問いは、人間は何故自分の心を知り得るのかという問いと通ずるものであるということである。"ことばの意味"というはっきりとした観念をまとめ、表象することは、現在の自分には出来ない。クリプキが唱える、未来の「可能世界」(P17〜18参照「可能世界」について手短に述べておこう。本書において私は、可能世界を遠くのような惑星のようなもの、すなわちわれわれの自身の環境に属しはするがどういうわけか異次元に存在しているものと見なすような、あるいは「世界交差同定」という疑似問題へ導くような、概念の誤用に反対する議論を行った。〜略)とは、無数に存在し、そして過去においても、元々ある可能世界として無数に存在しているのである。つまりは、自分自身が宇宙を築き、一人一人に自分だけの宇宙があるということだ。この世にいつ起こるか分からない自然現象などにおいても、クリプキのことばの意味への懐疑は、大いに適用されるであろうと考える。
 
 
……ことばってなに?

【短編】鳴る、夏

 今までで一番大きな声が鳴ったと思った。それまで鳴るという感覚はなかった。計算して作られた声が、自身の人格を作っていると嘆く日々であった。声だけではない。作られた自分が行う全ての動作も“作られている”と感じる。人の手によって建てられた建造物や、描かれた絵画を見て作られた自分は「すごい」と発するが、すごいのは作られた(創られた、造られた)物同士お互いさまであるはずなのだ。ワンダーだ。 深大寺行きのバスは、子どもが好奇心で掻き集めた玩具を小さな箱に無理矢理押し込めたような息苦しさだった。週2日休みの自分が休日を溶かして(とも言いたくなる)いると実感するほどには、社内の酸素は薄かった。今日は、初めて会う日。正確に言えば、「初めまして」の人と「初めて」会う日は「初めてではない」のだが。生きていれば、同じことをする回数は増える。“初めて”と言い聞かせることで、自分の背中に羽を生やすのだ。「デート」と呼ぶには気恥ずかしく、「デートアプリでプロフィールを熟読した相手と初めて会う」と呼ぶには、生々しい。いつも新鮮に何かを感じたい、と作られた自分は、薄い酸素をめいっぱいに吸い込む。時間にもうし少し余裕を持っていれば、うねる前髪を気にしない自分になれたのに。「ありがとうございまーす」と、陽気なしゃがれ声でバスの運転手に挨拶する目の前の老人を見ると、自分も年を重ねれば周囲への感謝がもっと溢れるようになるのだろうか、と。想像をすれば、積み上げた積み木も崩したくもなります。「将来」という言葉の存在に将来はもっと気が滅入ることになるであろう。知り合いのヘテロセクシュアルの友人は、アプリで知り合った初めて出会う日の行きの道中でこう思うらしい。マッチングアプリのプロフィール上で結婚願望の項目に「いい人がいればしたい」と記載している相手の“いい人”に自分はなれるのだろうか、と。ああ、知らない初めましての相手と出会うときの前髪はうねらないでほしいし、知らない初めましての人との将来など今は考えなくてよい。

 自分よりこじらせた前髪を制御できていない人間がもう一人存在したことを知れてよかった。降り立ったバス停の近くには、“うねうね”と称するにふさわしい重ための前髪から『羊たちの沈黙』のクラリスのような芯の通った目をチラつかせている人間。しかし、クラリスのような揺るぎなさとは真逆に、挙動不審に横揺れする身体が際立っている。不審で、素敵だ。「弓木さん?ですか?」と、その人間は、怪しく二つに区切ってこちらに質問を投げかける。「はい!よくわかりましたね!」文字起こしでもすれば、必ずエクスクラメーションマークが語尾につくであろう返事をする自分、初対面として悪くない作られ方をしている。こうして自分で言い聞かせないと生きていけるわけないでしょうと、己の第一印象に、集中。「なんとなく…分かるじゃないですか。こういうはじめまして同志でお互いを探している“なんとなく”の気配…あれ?わかりますよね?」と、“なんとなく”を二回重ねたこちらへの擦り合わせに苦笑しつつ同意を求めたがる目が愛おしいその人。芯が通りつつも、アンバランスな丸い目が愛おしい。到着した東京都調布市深大寺は、東京都に立っている実感を持てない緑の視界。例えば、交際して一ヶ月の間柄で訪れそうな箱根旅行の趣きを初めましての人と味わえるお得感といったところであろうか。予約をしているわけもない今日のお宿に向かいたい、このまま。この人と?いや、初めましての人だし。「弓木と言います。今日は一日…いや、半日くらいか、どうぞよろしくお願いします。」太陽を味方に付けた程の眩しい挨拶にしてみようとしたところ、畏まった挨拶になったことをどうぞお許しください。「桑田と申します。自分はすごく歩けるんですが、疲れたら言ってください、今履かれているサンダル、ちょっとソール厚めそうなので」足元に目線をやられた!という恥ずかしさと同時に、すごく歩けると自負する桑田の足元、スニーカーに目をやっておあいこにしてみた。ナイキリアクトインフィニティ3。歩くときに歩ける靴を履いてくることが出来る人間であると証明される。桑田は、自分で自分の意見に納得するようにウンと頭を縦に振り、「お茶でもしましょう。ケーキが食べたい今です」と、緊張しているのか緊張していないのかどちらかわからない面持ちかつ、YESorNOを特に求めない形のお誘いを唐突に放つ。半ば強引なようで、この人にはこの誘い方が“合っている”と確信できる。嫌な気分は少しもしなかった。深大寺といえば、お茶より蕎麦でしょうと土地柄すぐさま浮かぶが、特に口には出さず、その後もぼんやりと蕎麦のことを考えながらも弓木は黙って桑田の隣を歩く。歩くペースがほぼ同じである。同い年であることを改めて擦り合わせ、今はそんなにお腹が空いていない互いの状態も擦り合わせ、少しネガティブな将来への不安を暗くなりすぎない塩梅に擦り合わせて会話をした。弓木から、「自分は目を見て話すのが苦手だ」という告白もした。ただ、この数分の間歩いただけでも、アイコンタクトを十分にとったかのような充足感を覚えた。横並びで歩き、目を見合わせずとも、不思議と見つめ合っているような感覚になれる、そんな人間が、実際たまに、いるのだ。この緊張しながらもリラックスできる場面は、人生の中であと何回訪れるだろう。ふと、なんだか今が惜しくなる。過ぎ去ることが確定している今を現在進行形で恋しがっている。過去になってほしくない今の夏、なんてキャッチコピーにもならないような恥ずかしいものがあってたまるか。いや、あってもいい。脳が痛い。

 ジジジ…ジジ…ジッ……ジジ。店の入り口で腹を上に向けた蝉が動かなくなる姿を好奇の目で見つめるヨークシャテリア、息が上がってハァハァと身体全体で酸素を仰いでいる。犬を見つめる汗だくの弓木と桑田…と、その飼い主。一目惚れは、人生これまで一度もしたことがないと神に誓う。人間と犬と蝉が結集した場、「トム&サム」というケーキ屋のショーウィンドウを遠目から見つめながら、入ろうか、ということに落ち着いた。ドアを開けた瞬間、昔の雰囲気が香るだろうというのはなんとなく想像できたが、本当に香るのだ、古い空気が。「“昭和レトロ”という概念は嫌いなんだけど、こういう古さは好きだな。」と、桑田は、並んだケーキを注意深く見つめながら地から浮いたように話す。「わかる、わかる」と、桑田と対照的にするぞという意志を持ちながら適当なニュアンスにならないよう、地から決して離れずに返答をする。これからテーブル席で対面になって桑田とケーキを食べ、紅茶を飲む。頭で予行演習をする、対面は苦手なのに。いや、苦手だからこそ、日常対面訓練をしてきたことを思い出すのだ、と。美容院で鏡と向き合いながら、美容師さんと話す自分の口の動きを見ると、未だに車酔いをしたような気持ち悪さに見舞われ、クラクラする。一挙一動“作られている”ことをいっそう感じるので。作られた自分を感じさせないでほしいので。ふと、桑田には自分がどう見えているのだろうと思った直後、「初めてのケーキ屋では、ショートケーキって相場は決まってるんだよ」と、桑田はそういってキキキと横に広げた笑みをこぼしながら楽しげに話す。その笑い方は、作為的ではなく、発生的だ。一回目のフォークの入れ方で、ショートケーキの形は大胆に崩壊し、魅力が爆発した。なぜこの人はこういう発言をするのか、なぜこのような表情をするのか、桑田に関しては他の人間に対して行うような考察を一切したくないと思える自然の緑がある。考えたくない衝動。いつもは丁寧に取って折り畳むケーキの透明フィルムもこの時は自然と思い切り外してみるなどした。色がない、透明な薄さに気を遣っていた自分をやめる。

 店を出る頃には、扉前で力を振り絞っていたほぼ屍化した蝉は、姿を消していた。生きたのか、死んだのか。「な〜つのお〜わ〜り〜」桑田が突然歌い出した声は、西陽と同化しており、不思議なはじまりの快感を覚えた。履いたサンダルの痛さは想像以上に増したが、暑さと痛みが相性がいいと感じる程には、身体に余裕がある。深大寺へ向かう道右手に「こんぶ」とひらがなの丸っこいフォントで大きく書かれた看板を出した店に目をやる。店内は、袋詰めされた乾燥わかめや昆布あおさなどが売られている。どうやら海藻類の専門店らしい。私は、一瞥しただけで通り過ぎ、店内を物色しているであろう桑田の様子を確認するために、振り返る。その時目に入った光景に「あっ」と、炭酸水の蓋を開けて瞬時に鳴る音のように自分の声が発射したと感じた、鳴った。「こんぶ」と書かれた看板の裏側には、「わかめ」と書かれていたのだ。驚きも大きかったが、声も負けず大きく存在を鳴らす。桑田は、丸い眼にギュッと力を入れてこちらを見ている。「わかめ。」興奮した状態で看板を指差し、リバーシブルな看板であることを伝える。桑田は、再びキキキとより大きく横に引き伸ばした口で「大きい!」と、こちらに向かって放つ。瞬時に、自分の“声が”大きいと言われたという認識が出来なかった。「大きかった!」脊髄から鳴る音に、私は裸足の心で返答する。西陽が沈まないという断言はできない夕方を生きている。桑田の影に自分の影が重なり、異様に胴体が長くなった犬のような影が立体に浮かんで見えた。

【雑記】2023/4/28

うわ、突然の雨だーーとか思った日が4月の上旬にあったんだけど、
まぁあの日は最悪だった 体調も最悪だったし。
すぐに傘買えばよかったんだけど、
駅〜徒歩20分強のところに現在の自宅があるので
駅から歩き始めて数秒(盛ってない)で降られたせいで小ビショの状態で歩いた先に通りがかったコンビニで傘をGETした時には大ビショの状態になっていた
衣類・鞄すべてビショった ションボリ

しかし、天気予報では突然の雨があるでしょう、と予報されていたらしい。え…知らんかった

2023年だぜ…
スマートフォン所有率90%超えてる時代に
雨で全身びしょってるの解せないでしょうが

手で持たないドローン日傘、とかニュースになってたけど、あれいつできんの?って思いますね

傘を適切なタイミングで所持することができない、また傘そのものの不便さがずっと変わらないのが、
どうも雨は一時凌ぎでやり過ごすしかないんですよという印象になっている
自然の前では人間は太刀打ちできないとか
さもありがちな戒めを
一番うざい形で知らしめられるような
雨の日が許せない。あと傘をうまく持てない自分も許せなくなるので許せない。


傘の革新を待つよりもっともっと
ワガママ言わせてくれよと。
自分の上には「「「雨降んな」」」って思いますね。

1ヶ月間強制出社させられたけど(今日でやっと終わる)、
もう途中吐いたよね こんなんストレスMAXビビデバビデブーでしょう。
付きっきりで教えてくれる上の人がびっっっったり隣に貼っついて教えられるその席図が無理だった。あ、あとね。ビジネスとかどうでもいい ビジネス用語とかきもいよ。
その女性は人当たりはいい(でもキムラには厳しい)、そして業務上一度も誉めない。
できてるのになーってことも誉めない。
そしてミスは人一倍にジクジク指摘して、ため息をつく。
子供じゃないんで誉めて誉めてアピールとかしないけどぉ!教える側のポジションの人って誉める重要性も教わるんですよね?って思いながら、教わってた。
自身のPCを真っ直ぐに見つめながら、隣に座ってるキムラに業務指示出すその姿もニガテ。
物理的に目を見ずに、目を見て話してるかのような錯覚を抱かせる話し方の人ってマジで尊敬する。そしてそういう人になりたい。

自分の分も買った「せやかて」という名のどら焼きをおやつにソッと"これよかったら…(あれだよ、ちょっと2人の空気間が張り詰めすぎていたのでブレイクタイムみたいなのしたかったから)"と差し入れしたら、
ちょっと間が空いて「せやかて…(苦笑)」とタイトルだけ呟かれた時のあのマスク越しの引き笑いを忘れないだろう。
そのあと数時間かして、ちらっと横目で見たらなんか端っこのほうに粗雑に置かれてて
笑っていいとも!とか叫びたくなった

どら焼きのお味は、あーふっくらしてて美味しかった。

アメニモマケズ、とかばーか宮沢!
自分の上には「「「雨降んな」」」
って思いますね


雨は凌ぐものとかゆーけど
キムラの上には雨降んなって思うね
でも雨降らなくできる革新的な仕組みがこの世に生まれたら
「止まない雨はない」とかいう
はげましの言葉が減っちゃうよね
どうでもいいか

なんか気づいたら4月28日になってた
なんか、なんか、で一時凌ぎはできてるからいいよね
誕生日おめでとう自分