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『名指しと必然性』

「x3+y3=z3(ただしx≠0,y≠0,z≠0である)において、x,y,zがともに整数となるような組み合わせは存在しない」これは、今日的な記述で書いたフェルマーの最終定理である。フェルマーの原文を見てみると、「立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。一般に、冪が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない」と記されており、このままだと論旨が不明瞭な式を、ライプニッツは計算記号を提案したことによって明確化しようとしたわけである。この当時、数学とは、ただの「数のみの学問」ではなく、それはもはや人間の考え方の枠組みを包含しており、言語分析に関しても大きく踏み込んでいるのだ。これは、アリストテレスの時代から提唱されている分析哲学の流れであり、言語の分析を通じて物事の真理を把握しようとした形而上学の歴史である。 

 
しかし、クリプキは、「唯物論は、私の考えでは、世界の物理的記述は世界の完全な記述である、すなわち必然的に帰結するという端的な意味ですべての心理的事実に「存在論的に依存する」、と主張するものでなければならない。これが実情を捉えていないという直感的な見解に対して、説得的な議論を展開した同一性論者はいない、と私には思われる。」(『名指しと必然性』P183 第三講義より)と、述べている。これは、身の回りの全てを言語として表現できるという言語分析主義者のこれまでの主張を否定したといえる。この考え方になる理由は、そもそも言語がものの同一性の本質にさえたどりつけないのであるから、哲学の核心を言語が担えないという所以である。
 
クリプキは、クワス算によって、ことばは意味を持てるかということについて懐疑している。(『ことばは意味を持てるか』参照)
…例えば、56までの数字での足し算しかやったことのないAさんが居たとする。その人が、68+57の答えは125だと言うと、正しい答えは5だと主張するBさんが出てきて、その人との議論が始まる。Bさんは、「+」でプラスのことを意味するなら答えは125だが、「クワス」のことを意味していたなら答えは5だと言いはるのである。Aさんが反論して、プラスのことを意味してきたというと、Bさんは『「+」でプラスを意味してきた証拠を挙げてみろ』と言うのである。実は、ここからが問題で、いくら証拠となりそうなことを挙げても、証拠として認めてもらえないのである。証拠となる事実が無いのも、どんなことを挙げても証拠とはならないようなのだ。このことから、言葉が意味を持つという主張を正しいと証明してくれる事実は存在しないのだと結論付けられるのである。
 
クリプキクワス算からは、こう解釈出来るであろう。
私たちは、様々なことばそれぞれに決まった意味があると思っている。このことばは、あることを意味すると自分も思っていると同様に、相手もそう思っていると信じ込んでいるし、今までも、そして今後も、そうであると確信的に思っているのだ。言うなれば、私たちは、ある言葉は定められた規則に従って使われていると思っている。だが、クリプキの議論に従うのであれば、従来の言葉の使い方に矛盾しないようにし、かつ、新たな規則を作り出していくことが可能ということが結論付けられるであろう。
 
クリプキが考える"ことばの意味"について本書を読んで知り得たことは、言葉が意味を持つか否かいう問いは、人間は何故自分の心を知り得るのかという問いと通ずるものであるということである。"ことばの意味"というはっきりとした観念をまとめ、表象することは、現在の自分には出来ない。クリプキが唱える、未来の「可能世界」(P17〜18参照「可能世界」について手短に述べておこう。本書において私は、可能世界を遠くのような惑星のようなもの、すなわちわれわれの自身の環境に属しはするがどういうわけか異次元に存在しているものと見なすような、あるいは「世界交差同定」という疑似問題へ導くような、概念の誤用に反対する議論を行った。〜略)とは、無数に存在し、そして過去においても、元々ある可能世界として無数に存在しているのである。つまりは、自分自身が宇宙を築き、一人一人に自分だけの宇宙があるということだ。この世にいつ起こるか分からない自然現象などにおいても、クリプキのことばの意味への懐疑は、大いに適用されるであろうと考える。
 
 
……ことばってなに?